たどり着いた幸福の定義 | ゼロワン研究所

2016.11.29

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たどり着いた幸福の定義

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どうも!ケイティです。

みんな迷いながら強くなる。そして自分にとっての幸福を追求していく。僕は、今までちょっと普通の人よりエキサイティングな体験や経験をしてきた。

毎度、自分自身と自問して、自分にとっての幸福とはなんなのかを自問自答してきた。今日はそんな、自分の幸福の定義が変わっていくことについて書いてみた。

幸福の定義は年齢と経験で変化していくもの

僕は自分自身の幸福とはなんだろうと昔からよく考えてきた。僕の中では、幸福とは、一時的と永続的と2種類あると思っている。それぞれによってタイプが違う。

例えると、暴飲暴食は一時的には幸せかもしれないが、永続的には不摂生からくる病に陥ることもあるので幸福ではない。

なので、一時的なものと永続的なものが幸福には2種類あるということは前提だが、僕の考えでは、幸福の定義が年齢と経験で段階によって分けられたので幸福の定義について書いてみた。

1 幸福を否定する考え

幸福とか、幸せって、要は心が満たされてる事でしょ?
であれば、幸せだなー思う=満たされているので伸び代がないというような感覚をずっと感じていました。

なので、出来る限り、自分自身、幸せなんて簡単に思っちゃダメだと自分に戒めのように捉えるようにしていました。
そうすると、周りに対して負のエネルギーというか野心を持って、とにかく向上心を持って自分でも想像もつかない自分になっていたいと擬音語でいうとまさに「ギラギラした人」だった。

もっと頑張らなければ!とドンドン、気合いが入る分、パワーは出るんだけど、どうにも心が虚しい。そして次に至った幸福の定義が。

2 物心両面の幸福の追求

元々は、京セラ創業者の稲盛会長が中村天風という人から感銘を受けた言葉として企業理念にしてあったものだけど、要は、経済的な豊かさと心の豊かさを追求しようという考え。

つまり、経済的に何の制約もなく、常に心も穏やかでいれること、と思って日々過ごしていたが、やはり、当時ギラギラだった僕は、心の平穏を求めると、自分が優しくなりすぎてしまってメリハリが自分につかないような気がして、物心両面の幸福の追求という事を頭で理解していても心が追いつかなった。

そして、常に心は穏やかではなく、自分の心を紛らわすように飲み歩いた。そうして、自分自身の幸せとはなんなんだと。お金があって、仲間もいて、家族も元気で、彼女もいても、何か心が虚しい。

それを友人に相談したら「それは贅沢な悩みだよ」と言われてしまった。それは自分でもわかっているが、どうも自分の中でしっくりする答えがなかった。そうして気付いた。

3『幸せの絶対的総量は全人類平等。若くして成功した超富裕層と庶民は、結局のところ幸せにおいて変わりはない。』

『幸せの絶対的総量は全人類平等。若くして成功した超富裕層と庶民は、結局のところ幸せにおいて変わりはない。』という言葉、何かの本で読んだんだけど、富裕層が節税や子供に資産を残すため、やたらシンガポールに移住するが、そこでは制約があり、1年の半年以上はシンガポールに居なければいけない。

そして、それを5年続けなければ資産を分配できないというような話だった。「どんなにお金を持っていても、女性遊びは飽き、やることがとくになく、毎日、子供の料理を作り、子供を学校までの送り迎えをする毎日。

そこで、結局の所、毎日、スーツを着て会社に行って一緒に働く人がいるっていうのは、幸せな事なんだと思った」という事。

結果、「幸せの絶対的総量は全人類平等。若くして成功した超富裕層と庶民は、結局のところ幸せにおいては変わりはない」という文言を読み、僕も同じ心境でした。

しかし、なんかこの言葉ってネガティブなニュアンスが含まれていると思っていて、もっと、心の底から喜びに近い感情が出るものだけど、お金持ちの戯言のような感覚も感じた。一種の諦めのような感じ?

で、結果、今はこれが一番、自分的にはシックリ来てるんだけど

4 幸せとは、相対論。

過去に、自分のモチベーションを1回整理しようと思った時に出来た事なんだけど、人間って結局の所、過去の自分と比べるか、周りの人と比べて幸せなのか、で幸せかどうかを図っているけど、そういう考えではなくて、自分が今目指しているゴールに自分が今近づいてるのかどうかなんじゃないか。だけで判断するようにしています。

keity

今の自分が未来のイメージしている自分に近づいているんだったらそれでいい。という結論に至りまして、この10年、大分、幸せの定義というものが、自分の中で変化?進化していきました。

僕は少なからず、10代の時の自分が今の自分は想像が出来ませんでした。

だからこそ、今の自分が明確に未来を想像出来ても逆に面白くないと思っていて、将来は今自分が望んだ未来よりも、より良い未来にしたいし、自分の中でブラブラしてはいけないと信念として幸福の定義というのを定めました。

5 自分の役割によっても幸せの形は変わる

過去に、自分の両親に、「母さんの幸せって何?」と何気なく聞いたことがありました。母はこう言いました。

「子供たちが幸せになってくれることだよ」とほんとその通りだなと思った。子供の立場からしても「母さんや親父が幸せだと思ってくれている事が自分の幸せだな」って多分、どこの家庭もそうだと思うけど。

ただ、僕には、まだ子供がいないので、一人のビジネスマンとして考える「幸せ」は上で述べた通りです。

自分の役割によっても幸せは違うんですね。父親としての幸せ、経営者としての幸せ、子供としての幸せ、自分の子供たちに対しての幸せと。

6 それでも、自己満足では満たされない何かが起こる

一見、客観的に見れば満たされていると思うことでも、自分の中ではなにか腑に落ちないことがあった。

お金を目的にするという事は、ある意味簡単だけど、お金を稼ぐ事を目的にした場合、くそつまらない現実が待っていることを僕は知っている。改めて、すべての制約を外して、自分はどんな状況なら幸せと心の底から思えるのか。

毎日温泉行ったり、毎日南国でゆっくりは僕には、幸せとは思えない。
そんな事をしたら、この感覚はまた出てくるだろう。

つまり、自分の人生を何に使うかを本気で考えると、お金の為とかしょうもないと思うわけです。自己満足のためにやっていたら、この心の空虚感というのは必ずまた来るだろうと。

7 腑に落ちた幸福の定義、究極の自己満足とは

結局、この心の空虚感は、自分のために生きている以上必ず訪れるんだと思う。

逆に、自己満足の領域を超えたという事なんだろう。自分の物質的欲求も時間的自由も、すべてが手に入った時、なにも面白くなくなる。これ以上、心が枯渇した状態に耐えられなくなる。

そこで思ったのは、究極の自己満足とは、「人が幸せになることや喜んでくれることに自分が関与できることなのではないか」と。思うようになった。自分の内側から湧き出るやる気がどこからでてくるのか。

最初は自己満足の為に湧き出るようなエネルギーであるところまでは行ける。

しかし一時的にはやれても、そのあとは自己のためにやる必要も既にないし、利己的な理由で最初やるエネルギーがあった分、その利己的な理由でやる必要性がなくなった時にエネルギーの出しどころがなくなって心が萎むんだと思う。

それよりもホントに困ってる人やなんとか現状を抜け出したいと思ってる人に手を貸して、少しでも人生の質を向上させることに貢献出来たらどんなに心が躍るか。と今は思う。綺麗ごとと言われるかもしれないが、僕は綺麗ごとで成功すると決めた。

幸福の定義を追求した結果ここが一番自分の中で納得できる答えだった。「綺麗ごとでは成果が出ない」といっても、人間的にどうかと思うような生き方も仕事も僕はしたくない。綺麗ごとも本気でやれば、関わった人には伝わる。

keity

僕は、「自分らしく生きられる人を増やし、僕も自分らしく生きる」

まとめ

幸福の定義って年齢と経験で変わってく

・過去の自分とも周りとも比較せず、自分が今ゴールとして示しているものに近づいているなら、それは、幸せな事だという事です
・そして、役割によっても幸せは変わっていくという事
・それでも心は満たされないのは、自分の心が「自分のためにはもういいよ」と言っているんだと思う
・ 究極の自己満足とは、人への貢献

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